事件関係地図
事件関係の地図です。
<a href='http://flowmanagement.jp/wordpress/wp-content/uploads/2008/06/map.jpg' title='狭山市詳図(1966年、人文社刊) その1'><img src='http://flowmanagement.jp/wordpress/wp-content/uploads/2008/06/map.thumbnail.jpg' alt='狭山市詳図(1966年、人文社刊) その1' />狭山市詳図(1966年、人文社刊) その1</a>
<a href='http://flowmanagement.jp/wordpress/wp-content/uploads/2008/06/map21.jpg' title='狭山市詳図(1966年、人文社刊)'><img src='http://flowmanagement.jp/wordpress/wp-content/uploads/2008/06/map21.thumbnail.jpg' alt='狭山市詳図(1966年、人文社刊)' />狭山市詳図 その2</a>
上の地図は、1966年(狭山事件が発生した1963年の3年後)発行のものです。<a href="http://flowmanagement.jp/wordpress/?p=115">以前のエントリ</a>でも論じたように、この時点で「狭山東中」になっていた中学(現在の入間川東小の位置)を「入間川中」という古い表記にしているなどいくつかの問題はありますが、私(管理人)がこれまで見つけた中では一番当時に近いと思われる地図です。現在の地図(例えば<a href="http://maps.google.co.jp/maps?lr=lang...iwloc=addr">Google Map</a>)と比べて見て下さい。
赤字の注記はすべて管理人が入れたものです。縮尺的には、その1の方は右端の方にある被害者宅から佐野屋までが直線距離でちょうど1kmくらいです。その2の方では、入間川駅(現狭山市駅)から三柱神社(荒神さま)までだいたい250~300mくらいです。
地図だけではわかりにくいこともあります。例えば、「三柱神社(荒神さま)」というのは、地図ではわかりませんがかなり高い位置にあります。入間川駅、死体発見現場、教科書発見現場、第一ガードのどこからも、荒神さまに行くにはけっこうな坂道を上る形になります。それと、その1の地図の「OTくんが被害者を目撃した場所」から「佐野屋」の近くまで通っている道路は、現在狭山台団地になっている小高い丘(当時は雑木林)を越える形になります。
高低差がどのように推理に影響を与えるかの例として、被害者の登下校ルートの話があります。地図上では、その1の地図の一番右の方にある被害者宅と一番左の方にある川越高校入間川分校(被害者が通っていた学校)の間を往復するには、
<ol>
<li>北の方(「OTくんが被害者を目撃した場所」)を通るルート</li>
<li>南の方(「やげん坂」)を通るルート</li>
</ol>
の2通りがあるように見えます。しかし、実際に現地に行ってみると、北の方を通るルートはかなり起伏が激しく、自転車で通うにはあまり適していないことがわかります。それに対して南の方は、「やげん坂」という道の名前とは裏腹に、かなりフラットで自転車で走りやすい道が続きます。事件当日に被害者が第一ガードや第二ガードで目撃されているのは、単純な下校ルートではなくなんらかの意味があってそこにいた、という推測が成立するわけです。
ちなみに、確定判決では、被害者は荒神様の横を通って北の方に向かっていく途中(「その2」の地図の「出会い地点」あたり)で石川さんに会ったことになっています。しかし、「その2」の方の地図の等高線を見てもわかるように、荒神様と「出会い地点」の間にはもう一段高い地点(標高73m程度?)があり、標高60mを切る第一・第二ガード近辺からはかなり急な上り勾配になっています。被害者が<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9...C%E3%83%8B">マルコ・パンターニ</a>でもないかぎり、こんな急坂を自転車で登ろうとは思わないでしょう。北ルートで家に帰るとしても、線路の西側のフラットな道を走る方が全然楽です。わざわざ被害者が自転車に乗ってこの道を通ったというストーリーを構築するあたり、いかにも現地を見ないで、地図だけ見て書いた判決という感じがします。
その2の地図で、第一ガードと第二ガードの間にもう一つガードがあるように見えますが、当時の証言等を勘案するとおそらくここにはガードはなかったと思われます。
また、地図の問題ではありませんが、当時はこの地図のかなりの部分が未開発の雑木林や畑でした。死体発見現場のあたりは畑でしたし、鞄・教科書・ゴム紐等発見現場のあたりもずっと雑木林でした。やげん坂も、現在では通りの両側に大規模スーパーやゲーセンが建ち並ぶ開けた通りですが、当時は雑木林の中を抜ける薄暗い道でした。
<a href='http://flowmanagement.jp/wordpress/wp-content/uploads/2008/06/map.jpg' title='狭山市詳図(1966年、人文社刊) その1'><img src='http://flowmanagement.jp/wordpress/wp-content/uploads/2008/06/map.thumbnail.jpg' alt='狭山市詳図(1966年、人文社刊) その1' />狭山市詳図(1966年、人文社刊) その1</a>
<a href='http://flowmanagement.jp/wordpress/wp-content/uploads/2008/06/map21.jpg' title='狭山市詳図(1966年、人文社刊)'><img src='http://flowmanagement.jp/wordpress/wp-content/uploads/2008/06/map21.thumbnail.jpg' alt='狭山市詳図(1966年、人文社刊)' />狭山市詳図 その2</a>
上の地図は、1966年(狭山事件が発生した1963年の3年後)発行のものです。<a href="http://flowmanagement.jp/wordpress/?p=115">以前のエントリ</a>でも論じたように、この時点で「狭山東中」になっていた中学(現在の入間川東小の位置)を「入間川中」という古い表記にしているなどいくつかの問題はありますが、私(管理人)がこれまで見つけた中では一番当時に近いと思われる地図です。現在の地図(例えば<a href="http://maps.google.co.jp/maps?lr=lang...iwloc=addr">Google Map</a>)と比べて見て下さい。
赤字の注記はすべて管理人が入れたものです。縮尺的には、その1の方は右端の方にある被害者宅から佐野屋までが直線距離でちょうど1kmくらいです。その2の方では、入間川駅(現狭山市駅)から三柱神社(荒神さま)までだいたい250~300mくらいです。
地図だけではわかりにくいこともあります。例えば、「三柱神社(荒神さま)」というのは、地図ではわかりませんがかなり高い位置にあります。入間川駅、死体発見現場、教科書発見現場、第一ガードのどこからも、荒神さまに行くにはけっこうな坂道を上る形になります。それと、その1の地図の「OTくんが被害者を目撃した場所」から「佐野屋」の近くまで通っている道路は、現在狭山台団地になっている小高い丘(当時は雑木林)を越える形になります。
高低差がどのように推理に影響を与えるかの例として、被害者の登下校ルートの話があります。地図上では、その1の地図の一番右の方にある被害者宅と一番左の方にある川越高校入間川分校(被害者が通っていた学校)の間を往復するには、
<ol>
<li>北の方(「OTくんが被害者を目撃した場所」)を通るルート</li>
<li>南の方(「やげん坂」)を通るルート</li>
</ol>
の2通りがあるように見えます。しかし、実際に現地に行ってみると、北の方を通るルートはかなり起伏が激しく、自転車で通うにはあまり適していないことがわかります。それに対して南の方は、「やげん坂」という道の名前とは裏腹に、かなりフラットで自転車で走りやすい道が続きます。事件当日に被害者が第一ガードや第二ガードで目撃されているのは、単純な下校ルートではなくなんらかの意味があってそこにいた、という推測が成立するわけです。
ちなみに、確定判決では、被害者は荒神様の横を通って北の方に向かっていく途中(「その2」の地図の「出会い地点」あたり)で石川さんに会ったことになっています。しかし、「その2」の方の地図の等高線を見てもわかるように、荒神様と「出会い地点」の間にはもう一段高い地点(標高73m程度?)があり、標高60mを切る第一・第二ガード近辺からはかなり急な上り勾配になっています。被害者が<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9...C%E3%83%8B">マルコ・パンターニ</a>でもないかぎり、こんな急坂を自転車で登ろうとは思わないでしょう。北ルートで家に帰るとしても、線路の西側のフラットな道を走る方が全然楽です。わざわざ被害者が自転車に乗ってこの道を通ったというストーリーを構築するあたり、いかにも現地を見ないで、地図だけ見て書いた判決という感じがします。
その2の地図で、第一ガードと第二ガードの間にもう一つガードがあるように見えますが、当時の証言等を勘案するとおそらくここにはガードはなかったと思われます。
また、地図の問題ではありませんが、当時はこの地図のかなりの部分が未開発の雑木林や畑でした。死体発見現場のあたりは畑でしたし、鞄・教科書・ゴム紐等発見現場のあたりもずっと雑木林でした。やげん坂も、現在では通りの両側に大規模スーパーやゲーセンが建ち並ぶ開けた通りですが、当時は雑木林の中を抜ける薄暗い道でした。
おしらせ
狭山事件入門
概要
推理