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2012年02月08日(水) 05:14 JST
   

身代金受渡し

身代金受渡しは、狭山事件全体の中でも一番の「ヤマ場」です。

犯人が堂々と身代金受渡し現場に現れ、40人近い刑官の包囲網を突破して悠々と逃げおおせたことに対して、昔から下記のような疑問が提起されてきました。

  • なぜ犯人は現場に堂々と現れたのか?
  • なぜ犯人は包囲網を突破して逃げることができたのか?

この問題に対して先人がどのような推理をしてきたかについては、推理の分岐点を参照してください。



身代金受渡場所身代金受渡場所 白い×印が次姉が立っていた場所。犯人は手前の茶畑の中から現れた。

事件発覚の経緯に諸説あるように、身代金受渡しに関しても諸説あります。以下、まずは例によって裁判所が認めた公式の経緯です。

脅迫状に「五月2日夜12時」「女の人が」「金二十万円もッてさのヤの前にいろ」とあったのを受けて、被害者の次姉が札束(注1)を持って佐野屋酒店(注2)の前に立つことになりました。被害者宅では、母親は事件の10年ほど前に死去、長女は家を出ていて、三女は生まれてすぐ死去、四女が誘拐された被害者ということで、次女しか「女の人」がいなかったためです。 刑札は40人規模の刑官を動員して包囲網を布きましたが、脅迫状に「車出いく」とあったのを真に受けて、車が通れる大きな通りの交差点に重点を置いて配備していました。 次姉が5月2日午後11時55分頃からさのヤの前に立って待っていると、日付が変わった3日0時10分頃に犯人が徒歩で道路脇の茶畑の中から現れました。以下、裁判での次姉の証言を元に構成した、犯人と次姉の会話です。
犯人「おいおい」
犯人「おいおい」
犯人「来てんのか」
次姉「来てますよ」
犯人「警察へ話したんべ」
次姉「……」
犯人「そこに二人いるじゃねえか」
次姉「一人で来ているから、ここまでいらっしゃいよ」 (ここで、次姉のすぐそばにいた刑事が手で合図したため、次姉は4メートルくらい声がした方に進んだ)
次姉「ここまで来ているんだから、あんたのほうで出てきなさいよ」
犯人「本当に金持ってきているのか」
次姉「ええ、持ってますよ」 (風呂敷をときながら、さらに道路標識ちょっと先まで進み出た)
次姉「ここまで来てるんだから出てきなさいよ、あなた男なんでしょう、男らしく出てきたらいいでしょう」 (次姉、元の位置まで戻る)
犯人「取れないから帰るぞ、帰るぞ」
次姉(また進みながら)「私は時間厳守で来てるんですから、ここまで来なさいよ」 (そう言った後、「白っぽく人影らしいものが動いたのを見た」と次姉は証言している)
この次姉の最後の言葉の後、犯人の返答がないため刑事が飛び出しましたが、既に犯人は逃げ出した後でした。上の会話全部で10~12分程度、最後の「ここまで来なさいよ」から刑事が飛び出すまでは1~2分と言われています。
犯人は刑札の包囲網を突破して、捕まることもなく夜の闇の中へ消えていきました。警察犬が呼ばれて追跡を行いましたが、被害者宅のそばにあった養豚場の近くを流れる川(不老川)のあたりで臭いも見失いました。 ちなみに、次姉のそばには本当に(犯人が指摘したように)刑事が2人いました。また、次姉は犯人との距離について暗くてわからないが30メートルくらいと証言しています。

この身代金受渡についてもいくつかの異説があります。 まず、5月1日深夜にも次姉がニセ札を持って犯人を待ち、そこに警察も張り込んだことはほぼ確実なようです。この点については、脅迫状に「五月2日夜12時」とあったのを、「犯人の知能が低そうなので」5月1日夜12時=5月2日午前0時の可能性もあるとして「念のため」張り込みを行ったという証言が刑札側からも出ています。公式には1日夜の張り込みに犯人は現れず、翌日のさのヤ前が本番だった、ということになっています。

 

(注1): 新聞紙を切り抜いて作ったニセ札。次姉は「家で作った」と証言しています。しかし、長兄は裁判の証言で「警察の方(が作った)だと思います」と自分が作っ たことを否定しています。ちなみに、当時は既に1万円札があった(聖徳太子の1万円札は昭和33年発行開始)ので、20万円の札束と言っても女性が持つの に重すぎるということはありませんでした。

(注2): 被害者宅から直線距離で 1 kmほどの位置にある酒屋。ちなみに、この酒屋が「佐野屋」という名前の表札を出していなかったにもかかわらず脅迫状に店の名前が書かれていたことから、 犯人は店の名前を知っている地元の人間であるという議論があります。ただし、写真で見てもわかるようにアイスクリームのノボリなども出ていて普通のちゃん と商売をしている酒屋であり、調べれば店の名前もわかったと思われますので、必ずしも犯人が地元民であるという証拠にはならないと私(管理 人)は思います。


この身代金受渡しに関して、通称「劇団おまわり」と呼ばれる説が提唱されています。これは、狭山事件について真犯人追及の面から初めて本を書いた亀井トム、ならびに同氏の周辺で取材を担当した文殊社というライターのグループが提唱した説(注3)で、要約すると下記のようになります。

実際に犯人が現れたのは5月1日深夜(5月2日午前0時過ぎ)で、その時刑札は犯人を逃がしてしまった。その失敗を隠蔽するために、刑事が犯人役に扮して5月2日深夜に再度「身代金受渡」を装ったお芝居を打った。
なぜこのようなことをしたかと言えば、1日深夜の時点では被害者は生きていた公算が強く、そこで犯人を取り逃がしたために被害者が殺されたとなると吉展ちゃん事件の比ではない非難が刑札に集まることが予想されたためである。刑札は、「よりマシな失敗」として、「2日の夜に犯人が現れたが取り逃がした。しかし、その時点では既に残虐な犯人により被害者は殺されていた」というストーリーを考え、実行した。

しかし、現実問題として、犯人を包囲しながら取り逃がしたというだけで刑札はマスコミから多大な批判を浴びました。「劇団おまわり」をやるメリットは、上述のように被害者殺害が取り逃がしの前か後かで世論の非難度が変わるという程度の期待しかありません。万一劇団がすべてバレた場合にはさらに大きな非難を浴びるであろうというリスクを考えると、私(管理人)としてはこの説には賛同できません。刑札はリスクを冒さないだろうとか捏造をしないだろうということではなく、リスクに対してメリットが小さすぎると思うからです。ただし、亀井トムの諸著作(「狭山事件 無罪の新事実」など)を読むとこの「劇団おまわり」の考えに行き着くまでの経過、さらにそれを補強する証言等が詳細に説明されていて、思わず説得されそうになってしまいます。

「劇団おまわり」説の強力な状況証拠とも言える事実の一つに、「5月2日の刑札の張り込みがバカすぎる」というものがあります。

  • 深夜の張り込みなのに、投光器も装備せず、刑事たちに持たせた電池1本だけ入る懐中電灯が頼りだった。なお、当日は月齢9.3(半月よりちょっと太ったくらい)だったが、近辺に街灯はほとんどなかったため、何も見えないわけではないがかなり視界は限られていた。次姉の証言にもそれは表れている。また、後に裁判の弁護団により再現実験が行われている。
  • ハンディトーキー(トランシーバー)があったにも関わらず現場には持っていかなかった
  • 当初予定していた張り込み配置では、地元の地理をよく知っていて走れる若手が重要な位置に配置されていた。ところが、直前になって県刑本部のお偉いさんが配置を変更してしまい、高齢で地理を知らない人間でも階級が高い者が優先的に重要な位置に配置されてしまった。

「劇団おまわり」を否定する場合であっても、刑札がどうしてここまでマヌケ、言い換えれば犯人を逃がすためにやっているとしか思えないことをやったのかという点も、一つの推理のポイントになると私(管理人)は考えています。

また、亀井トム・文殊社の取材で明らかになった点の一つに、「5月1日の張り込みは、さのヤではなく被害者の自宅の前で行われたのではないか」という点があります。これは、文殊社メンバーが被害者の次兄(後に自殺)に1日の張り込みについて聞いたところ、「ああ、家のまわりでやりましたね」と返事をしたというものです。脅迫状に書かれた場所の指定が、最初は「門の前」だったものが消して書き直されて「さのヤの前」になっていたことと併せて、この点(1日の張り込み場所)でも刑札が捏造を行っているという意見もあります。

いずれにしても、犯人が刑札の包囲網の真ん中に実際に現れるという千載一遇のチャンスを逃したことで、狭山事件の捜査は迷走状態に入っていきます。

(注3): 亀井トムや文殊社の方々が自分の説をそう呼んだわけではありません。2ちゃんねる狭山事件スレ等で通称そう呼ばれているだけです。


サンケイ新聞昭和38年5月4日付朝刊サンケイ新聞昭和38年5月4日付朝刊

上記の記事に、失敗の経緯がかなり詳しく書いてあります。

  • 2日午前0時(1日深夜)にも20人規模の刑官がさのヤに張り込んだ
  • 3日午前0時(2日深夜)の犯人取り逃がしの際、次姉が犯人と押し問答になったときに、次姉のそばにいた刑事が懐中電灯を振り回して「犯人発見」の合図をした
  • その合図を見て、向かいにいた刑事が「犯人逮捕」の合図である呼び子を鳴らした
  • 呼び子を聞いた刑事たちは呼び子の方に殺到し、その間に犯人はゆうゆうと逃げた

ただし、これが定説というわけではなく、次姉やPTA会長の裁判での証言に「呼び子が鳴った」という話が出てこないところから、「呼び子は鳴ら(さ)なかった」という説も有力です。

 


東京新聞昭和38年5月4日付朝刊東京新聞昭和38年5月4日付朝刊

上のサンケイ新聞の記事の真ん中あたりにある写真とほぼ同じもので、より見やすい写真です。マイクロフィルムや縮刷版ではなく、当時配達された新聞そのものが閲覧できる某所の図書館で取ったコピーです。なお、サンケイ新聞はこの図書館に配達された版では違う写真が出ていました。 前のエントリで引用したサンケイ新聞の記事に出ていた写真のキャプションを信用すると、左から以下のように並んでいることになります。

  • A先生(被害者の中学時代の担任、第二ガードで被害者を目撃した人)
  • Mくん(被害者の中学時代の同級生、PTA会長の息子)
  • 長兄
  • 不明。父親か?サンケイ・東京新聞ともキャプションなし
  • 次姉
  • 不明。次兄か?サンケイ・東京新聞ともキャプションなし

一番右と右から三番目については私(管理人)の推測ですが、A先生やMくんが入っていることから考えると家族ではない気んじょの人という可能性もあります。

この写真に自転車が写っているとか、家族と一緒に中学時代の被害者の担任 だったA先生(第二ガードで被害者を目撃した人)が写っているのは知っていましたが、中学時代の級友にしてPTA会長の息子のMくんが写っていたというの は、読み返すまで気づきませんでした。ちなみに、このMくんは堀兼中学校卒業後、県立川越高校へ進学しています。被害者の日記にあった「狭山工業高校」ではありません。

このMくんに関しては被害者がかなり強烈な恋心を日記に綴っています。私(管理人)は、犯人が被害者を呼び出す口実としてMくんを利用したのではないかと考えています(もちろん確定の事実ではありません)。

ちなみに、その被害者の日記にあった「狭山工業高校」の男子生徒が誰なのか、おそらく、被害者と朝一緒に自転車で学校に行くことがあったという狭山工業高 校の生徒と同一人物ではないかと思いますが、被害者と同い年とすると今年で60歳、まだご存命の可能性が高いと思います。是非一度お話を伺ってみたい人の 一人です。

右端の真ん中あたりに日めくりカレンダーがあり、「2」とあります。常識的に考えると2日(さのヤでの犯人取り逃がしの前)に撮影されたのではなく、3日に撮影されたのにカレンダーをめくり忘れていたということだと思いますが、亀井トムさんあたりが見たら「2日に事件がマスコミに公開されていた証拠だったんだよ!」(なんだってー)ということになりそうな気もします。 手前に見えている自転車は、ランプ(ハンドルの上についている……個人的に、これでは前の路面がうまく照らせなくて実用上問題ありそうな気がしますが(笑))や前かごの形状から見て被害者の自転車に間違いないようです。

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